これまでの精神科作業療法協会の足跡を、時代の推移と共に振り返ってみました。
「精神科作業療法」の原点がここにあります。
長文ですが、是非一度お読み下さい。
また、仕事に悩んだとき、行き詰まったとき、チョット読み返してみてください。
きっと何かが見つかるはずです。
精神科作業療法協会
あゆみ
1965−1984
…この癲狂村落すなわち「コロニー」とは、どういうものであるかというに癲狂院のすぐ傍ら又は多少離れたところに、広い露地があって、そこへ信用のできるこれならばよいという患者を癲狂院から選んで通れていって、職業をさせる。珠に多く農業をさせるのであって、とにかく農業でなくとも、そういうようなところを造るのを「コロニー」というのである。故に患者は、病室を離れて、外に居て四方に少しも国いのないところで、仕事をするのである。「コロニー」で患者にさまざまの仕事をさせるのを、監獄でさまざまの仕事をさせるのと同じように思う人があって、病人が労苦を感じて、それをいやがりはせぬか、病人を労働に使っては、体のために悪くはないかなどと考えるが、これは全く杞憂であって、実際にはそんなことはない。もちろん病人には誰にでも仕事をさせるというわけでなく、病症と病状とで、選り別るのである。
呉秀三「癲狂村の話」 家庭衛生叢書 11−12 1906−7
出発点
精神障害者を精神的にも物理的にもがんじがらめに縛りつけていた時代、呪術や恐怖がこの人々をおおっていた時代、ピネル(Philippe
Pinel 1745−1826)による開放の実践(1798.5.24)は、今日の私たちの携わる仕事の出発点であり、また、立ちかえるところであると言えます。解放とともに、徐々に、人間としての営み、感情、意欲や願望、関心…それらが自ずから、あるいは、導かれつつうごめいてきて、身のまわりのこと、生活行動、手仕事、あそび、まわりの人たちのことなど、いろいろなエピソードが生まれてくる。無拘束法とも称されたこのピネルの実践は、フランス・ドイツ等に於てやがて「コロニー」を生むこととなりました。
1906年から1907年(明39−40)にかけ、松沢病院の前身てある巣鴨病院長呉秀三教授(1866−
1932)は、この「コロニー」を我国に紹介しています。ここでは、「作業治療法」とその思いきった展開について、渡欧時(明30)に著者の心をとらえたそのままが記述されており、やがて我国で最初の作業療法の実施(巣鴨病院(明34))をみることとなり、明治39年には“作業手”“作業係看護人”が配置されています。
時代の流れの中で
さて第二次大戦の戦中から戦後にかけて、軍国・敗戦という世の流れの中で、精神病院とその作業療法は低迷し、あるいは体制に奉仕し、あるいは生命ながらえるための食糧増産にと、さまざまな曲折を体験してきました。この混乱期がおさまりかけた頃、向精神薬の登場と共に、薬物療法による精神医療の開拓がはじまり、作業療法の役割も再検討されるようになりました。
その一つは、「生活療法」概念の登場による体系化・組織化ならびに治療的社会としての病院のあり方の探求、その中における作業療法の意味と役割についてであり、その二は、薬物療法の効果の検証の場としての、また、作業療法と看護活動、病院における治療活動の統合(治療チーム観〉の必要性についてであり、その三は、外勤・生活訓練(アパート等での自立のための)の活発化など、かつてないほど多くの病院で、さまざまな担い手と工夫の中で、作業療法が操り広げられてきました。
経験交流、研究、教育の機会
1957年に発会した病院精神医学懇話会(日本病院地域精神医学会の前身)は、精神病院に勤務する医療関係職種の集う場でした。生活療法・作業療法・社会復帰という言葉がそこでは沢山交わされていました。日本精神科看護協会(日本精神科看護技術協会の前身)は、作業療法や社会復帰活動の日常実践に深くかかわっている看護者も多く、看護と深くかかわりあう領域として、精神科看護のあり方と平行して、作業療法をめぐる研究や討議がしばしばなされていました。
こうした動向の中で、作業療法担当者の資質の向上を図るため、院内教育プログラムを始めた病院がみられるようになり(例:烏山病院〉、資格認定の必要性や診療報酬請求の実現にむけての発言や調査も次第に目につくようになってきました。
これらへの当時の行政などの対応を、加藤伸勝先生は本会第2回大会にて以下のように語っておられます。
…昭和29年から30年にかけて、当時松沢病院の作業医長であった臺弘先生が、それより以前に作業医長の職にあった石川準子先生と共に、都庁・厚生省に作業療法専従者の身分の保証、身分制度の確立に関する建議書を出された。しかし正式の回答はゼロであった。この頃身障者(児)に対する職能療法、機能訓練の確立の運動が非常に盛上がり、昭和35年から37年にかけて、厚生白書は心身障害者リハビリテーション推進策の必要性を強調、昭和38年医療制度調査会発足、国立リハビリテーション学院の創設をみた。が、この創設にあたっては、厚生省内所管課の違いから、日本精神神経学会は全く関与することがなかった。結果として、精神科は全く疎外された形であり、理学療法士養成を中心に考える形で、作業療法は付随的なものとして、学院の創設準備がすすめられた。昭和38年6月、PTOT身分制度打ち合わせ会発足。委員15人の中に、精神科医は一人も入っていなかった。私はそれを新聞で知って、これは大変なことだ、せっかくPTOTが出来るというのに精神科医が一人も加わっていないとはと、非常に疑問に思い、早速、私の病院の江副院長に相談した。江副院長もこの記事を見てガク然とされ、ただちに日本精神神経学会理事長秋元波留夫先生に連絡をされた。秋元理事長は、厚生省医務局に間合わせをして下さったわけであるが、その答が「精神科でも作業療法というものがあるのですか。それでは上司と相談の上で」ということであったそうである。
本会第2回大会加藤伸勝先生特別講演よリ(1966:掲載誌;前出)
本会の発足
昭和39年〈1964)、病院精神医学懇談話会場にて有志により本会の基礎となった「生活療法専任者の集い」開催の呼びかけが行われました。その時代背景には、これまで記したような流れがありました。作業療法に携わるものが、病院の枠をこえて初めて顔合わせをすることができた意義と喜びは大きなものでした。昭和40年1月30日(1965)、この集いは「精神科オキュペイショナルセラピイ協会」の設立総会をもちました(昭和43年現会名に改称)。
この設立総会は、都立松沢病院のピネルの人間解放の大きな図の掲げられている会議室で、あたかもピネルに見守られるようにして、作業療法の指導的、先駆的立場にあった多くの医師からの励ましを得て開かれ、心に残る集いでした。
…さて、ライシャワー事件以後、精神障害者対策が一つの歴史的な時点にさしかかっている時、私達の携わるオキュペイショナルセラピイの歴史に於ても、「作業」から「作業療法」ヘの質的脱皮、即ち理論と方法の確立や、又、本療法の点数化、従事者の資質や資格の問題等の解決を迫られているという一大転換期を迎えているわけであります。このような昨今の状況の中で、オキュペイショナルセラピイ従事者としての自覚をもって、明日の本療法をより治療的意義のあるものとし、又、精神障害者の社会復帰に貢献致すべく努力して参りたい。
成田文照氏(1983没)設立総会会長挨拶(1965)から
…日本の姿に則したOT活動の展開と、これまで長い間、我国の貧しいリハビリテーション施策の中で、これを支えてきた多くの実践者を忘れぬよう。
菅修先生の本会設立総会でのご挨拶(1965)から
身分法をめぐって
本会は設立直後、会の運営の基盤も定まらぬ中、PTOT法国会上程の渦中に投込まれました。度重なる国会請願は、遅きに失していたのみならず、日本の風土の中での実践の否定(あるいは無視)に立った、一気に先進国に追いつこうとする、文明開化や世直しに似た使命感の前に、かろうじて付帯決議を付加させ得たにすぎませんでした。
OT養成校は、第一線の従事者の再教育という視点を全くもっていませんでした。わずか240時間の受験貧絡資格取得講習で、3年間学習を積んだ人と対等に試験にのぞみ合否が判定されるハンディに加えて、精神科の領域の人々にとっては、神経一筋系障害、生理学や解剖学等の学習負担は大きいものでした。さらに、本会調査(1968)に於て明らかになったことは、この受験資格取得講習会の受講資格を有しない実践者が多数存在していたことでした。その理由の一つは、講習会そのものが開かれていないためであり、これについては、日本精神衛生会の協力を得て、本会として各地で開催出来るよう多くの努力を払い、行政府への要望を再々行いました。また他の理由として、学歴基準、経験年数基準により、門戸を開ざされてしまった人々のあることでした。本会としては、学習の機会としての講習受講(聴講)の実現までは取り組みましたが、そこから先へは厚い法の壁を破ることはできませんでした。
今日、身分法のもつ問題性は、実践の場の中に止どめおかれています。新しい作業療法と古い作業康法という言葉さえ巷間に平然と使われています。職場の中で、新しい作業療法の部門と古い作業療法の部門が別々に存在させられているところも少なくありません。
共通の目標を持ち、心を一つにして対象者の課題に対処してゆくという実践の基盤を今ほど必要としている時はありません。これからの本会のあゆみの大切な視点であると言えましょう。
実践の立脚点への問いかけ
次に本会の直面した課題は、“作業療法の名のもとに患者を管理し抑圧し搾取している”と、幾多の事例を通しての問題提起が、医師、患者、市民(マスコミ)からなされてきたことです。ちょうど作業療法点数化の動きが具体化しはじめた頃です。
この指摘は、率直に言って、作業療法実践者一人一人にその実践を振り返る機会を与えたことになりますが、よかれと信じ、また病院全体から、医師から求められ認められて取り組んできた実践そのものが、その土台がぐらついてくるということへの不安と焦燥を感じた実践者は少なくありませんでした。
人間としての解放(ピネル)の中にはじめて位置づき意味をもった作業療法が、私たちの手にかかると人間性の抑圧、人権の無視の権化となってしまうとは一体どういうことなのか。
私たちは日常の実践を支えつつ、一人一人の事例および白らの実践の点検をとうして考えようとしてきました。
本会設立間もない頃より、本会では会員からの共通の関心事として、作業療法による収益の取扱いについて、院内業務を利用した作業療法について、また下請け作業の是非等々、年次大会に於て多くの報告や討論が反復されてきていました。会としての方針の策定には至りませんでしたが、会員間の率直な論議をとうしてそれぞれが持ち場に持ちかえり実践の点検をすすめる具体的な手掛かりを得る機会となって欲しいとの願いでこうした課題への取り組みが行われてきました。
こうしたことと平行して、地域の中で障害をもつ人々とともに生きる場を作りつつある例(やどかりの里、あさやけ作業所、英国における対策等)および新しい精神医療の場の創造に着手している例(三枚橋病院、南信病院等)関連領域での展開例(治療教育、デイケア、保健所等)をはじめ、医療従事者としての基本的な心構え等々についての学習の機会を設けてきました。同時に各地で作業療法を指導し開拓して来られた医師の方々から、その考え方、理論、方法など、歴史的背景・治療構造・展望を合めお話をいただくことを重ねて参りました。
「薬づけ」「作業づけ」に代表される長期在院者、維持的OTのかかえる問題点は、どこにその新たな展開点を見出だせるか、等しく実践者の苦慮している事です。こうした学習と討論、実践の交流を経て、それぞれが自らの持場に戻って取り組み始めることの中に、実践者である私たちの答えが示されてきていると思います。
それでもなお、宇都宮病院事件(1983)が存在しています。私たちの会では、1984年、日本精神神経学会・日本精神科看護技術協会ほか2団体とともに、現地調査に踏み出しました。
ピネルにはじまりピネルヘ立ちかえるという精神から、作業療法実践上の指針を具体化してゆく時期にさしかかっているように思われます。
点数化
1974年、作業療法の点数化がこうした背景の中で施設基準の水準維持を前提に実現しました。しかし取扱い患者数や点数を中心に問題点は多く、また、作業療法士未配置病院では、経験豊富な実践者の存在があり、しかも質的に高い実践の展開があっても、これを請求できず、施設間格差がますます広がるという矛盾を生じつつあり、点数化についての本会の主張をとりまとめる必要が生じてきました。
保安処分間題
昭和49年(1974)の岡山大会で、保安処分新設案(刑法〉について会としての全体討論が行われました。法務大臣が刑法改正について法制審議会に諮問していた事への答申の中に、保安処分を実施する施設に、作業療法をはじめとする社会復帰活動を重要な治療活動として位置づけており、私たちとして深く関心を持たざるを得ない問題でした。保安処分の問題は、本質中に刑法理論、人権についての深い理解が必要になる面を含んでおり、今後さらに深める必要のある課題となっています。
とは言え、精神障害を持つ人々、入院履歴や通院経験をもつ人々にとって、このことか明文化されてゆくことは、大きな不安を与えており、解釈によっては、世論等を武器に歯止めのない長期拘束と監視の中に置かれないとも限らず、犯罪と精神病を短格化させる見方を世間に根付かせないとは言えません。保安施設内での作業療法がどう成立つのかの前に、まずこれらの問題点が私たちの日常実践そのものの中に影を落とすということから、昭和56年(1981)の大会で、保安処分に反対し精神医療の充実を求める大会決議が採択されました。保安処分に反対する精神医療従事者協議会に加盟し、他の5団体とともに歩みを共にした取り組みでした。
各種研修会の企画
会員からの要求に応じて、本会独自の研修プログラムをI昭和46年(1971)より企画実施してきました。
これは、それまでの年次大会分散会にて、レクリエーションプログラムの展開に苦慮しているとの声が大きく、そのニードに応えるため、レクリエーションの専任として実戦経験豊かな方々の協力を得、共に学びあう場としての位置付けで『レクリエーションワークショップ」が全面実施されることになりました。昭和57年(1982)には、『作業療法研修会』もスタートしました。
発会当初55名の会員が、20年後の1984年には230名となり、昭和44年(1969)より2代目の会長を任められた野田昭朋氏も現役を退かれました。職場でも本会自体に於ても大きな曲り角にさしかかっていることを痛感するとともに、20年間のあゆみを振り返るこの機に、あらためて、これまで本会を見守って下さった多くの方々、この会を大切にして親しみをもって大会に研修会に参加された会員の方々ヘ感謝致します。
1985−1994
…ここにビネルの二つの肖像がある。一つはまだ比較的若いころのものであり、もう一つは年をとってからのものである。
…若いころの肖像はまじめな人のよさそうな顔をしている。老年の肖像は気むずかしい、意地の悪そうな顔をしている。このちがいは、単に年齢の差のみによるのであろうか。あるいは解放者と管理者との立場、イデオロギーのちがいが顔にまであらわれたものであろうか。
西丸四方「医学の古典を読む」(みすず書房、1989)141頁より引用
形骸化への警句
ピネルには、その後“病人を鎖から解放したが、そのかわりに新たな道徳的な鎖をはりめぐらした”という批判が、ミッシェルフーコーなどからみられています。教育的に人道的に精神病者を導き救おうとする反面、新たな療養秩序や管理方式をもたらし、それらが形骸化してゆくことにより、荒廃と抑圧さえ生んでいたという指摘です。これは、1970年代に際だって精神病院の治療管理体制や生活療法・作業療法に寄せられた批判や見直しを求める指摘と通い合うものではないでしょう
{参考}神谷美恵子著作集8;精神医学研究2「ピネル神話に関する一資料」みすず書房1989
精神保健法の時代へ
この10年間はこれに先立つ20年の時代背景を受けて、精神衛生法(1950)の時代から精神保健法(1988)の時代へ移ってゆく10年であったと言えます。
精神保健法は、その対象について精神障害者という視点でとらえ、その人権を守り医療と社会生活援助の展開を支援してゆこうとしている点で、新しい時代の幕開けと言えましょう。しかしなお具体的な社会生活援助の仕組みについての課題をはじめ、修正を要する点もあり、5年ごとの見直しをしてゆくものとされました。
本会では、この見直しにむけて会員からの意見聴取を行いました。小規模の作業所やグループホームなどの開拓が地域で積極的に行われつつある反面、公的な施設の整備はなかなかすすんでいないことから、助成金や補助金の増額と国や地方自治体に設置を義務付けることが必要とする意見、保護義務者の規定(1990年の改正では“保護者”との表現になる)ヘの意見が寄せられています。こうした声を集約し、法の見直しに反映させる取組みが、さらに強化されることが求められています。
先駆的な労働行政
また、精神保健法より一足早く、労働行政の上での見直しがすすめられ、障害者の雇用促進等に関する法律(1983)が制定されました。精神障害者を他の障害者と差別なく雇用促進を図ることとなり、障害者職業センターの開設をはじめ職安窓口での今後の積極的な対応が期待されています。24回大会(1988)では、労働行政の新たな対応について、専門家を招いて学習を行いましたが、しかし、事業所側の理解がなかなかすすまないことや、職業リハビリテーション領域での積み上げがまだ十分ではなく、手探りの対応の段階にあるようです。
今まさに、こうした領域との密接なかかわりを積極的に積み上げて雇用促進が図れるよう努めてゆく時といえます。
インフォームドコンセント
インフォームドコンセントということがしきりに語られるようになりました。医療を受ける側の権利としても、また治療者・看護者側にとっても、正しく病状や治療方針等の説明を行い、理解と協力を得てゆくことの大切さを述べているのですが、これはとりもなおさず、相互の信頼関係に立った医療の展開を志向するものです。
作業療法の現場における支持や援助の在り方および社会復帰のそれぞれのステップにおいて行う援助や助言の在り方とかかわるものです。私たちの日常実践とのかかわりを検討してみる必要があります。
ADLからQOLへ
“ADLからQOLヘ”この言葉も会発足当初には聞かれないものでした。作業療法士養成がはじまるとともにADL全盛時代が続いていました。もとよりADLは、それぞれが自己実現を図ってゆくことができるよう援助する方法であり手段のはずですが、いつの間にか、ADLのレベルで人そのものを評価しがちになったり、リハビリテーションゴールに枠をはめてしまわないとも眼らないとの危惧が指摘されてきました。QOLという視点は、そうしたことへの警句ともとらえらえると思います。
精神障害者への援助は、車椅子生活の人が行動の自由度を広げる上では、家屋を改造し、道路や社会の基盤の整備が必要なように、本人に求める努力だけでは導けない、趣味や社会活動・生活の中で直面する壁の存在が沢山いろいろにあって、これをどう支え広げられるよう援助するか、一人一人の願いを大切にするかかわりが求められてくるわけです。
作業所やグループホーム、自助グループなど、地域社会に多彩な場が今生まれ続けています。具体的にそうした場に身をおいてそれぞれの生き生きした日々の創造にかかわりはじめた医療従事者もみられるようになってきました。
診療報酬改訂がもたらしたもの
理学療法士作業療法士法の制定と相前後して発足したこの会は、30年の歳月を経る事となりました。昭和49年(1974)には診療報酬請求の対象となり、作業療法士による作業療法の基盤が一応整ったことになります。診療報酬点数は、30点時代から1993年には200点時代を迎えました。SSTについても、1994年には請求を認められるようになりました。このような状況は、実践の場に何をもたらしてきているのでしょうか。
精神科作業療法施設として認可されている病院は、1994年には全国で300以上に達し、作業療法士が登場したことによる病院内の治療活動の見直しもしばしば行われてきています。精神科デイケアの開設や作業療法施設認可を得ようと努める病院は、今後さらに増加すると思われます。
一方施設基準の見直しを強く求めてゆかなければならない状況が生じており、現行のままでは、小集団やベッドサイドでの作業療法、生活軸となりながらの作業療法の展開が評価されず、作業療法の多様な展開と適用を留保せざるを得ない場合も多く、これは現行の施設基準の弊害といえます。
なお作業療法担当スタッフや、医療チームの在り方にはどんな変化が起きているか、点数請求基準に達しない病院でのリハビリテーション活動の実際と課題についても、検討する時期であると考えます。
新たな流れ 一低迷する作業療法との指摘も一
この10年は国際障害者年の影響も残って、ユーザーや市民にも開かれた会議の開催が目につきますその一つは、日本精神衛生会主催の精神保健会議で、その第2回の会議(1988)では「精神障害者のリハビリテーション」が主題となり、会場の有楽町マリオンは、会場に入りきらぬ人々がロビーでテレビ中継を見ながらの参加という状況でした。
この席で一人の演者が「百年一日が如き作業療法」と語ったのを受けて、秋元波留夫先生も「地域での作業所などの活発な心強い展開に比べて病院内の作業療法は低迷している」と語っておられました。
専門職が登場して久しいのにこれは何をさすのだろうか、それぞれに心あたりはあるのかと悔しさを込めて、そのことを会のニュースに書いたりしました。“医師の指示のもとに”ということは決して担当者の主体性を否定しているものではないのですが、開拓精神をもっと持ってといわれているように思います。
作業療法についての激しい攻撃と批判の矢面に立たされて日も浅い中で、積極的な態度を失いかけていなかったろうか、診療報概体系の問題はないだろうか、他の病院スタッフから浮き上り実践がよく理解されていないということはないだろうかなど、いろいろなことを実践にあたっている者同士で話し合うためにも、この会がもっと利用されたらよいと思います。
もう一つは、世界精神保健連盟1993世界会議が日本で開催されました。本会も臨時募金を募り、後援団体として参加、これにもユーザー、市民、日頃関わりの少ない領域の専門家の参加などもみられ、広い視野で精神保健を考える機会として役立ったと思います。 この年、東京で精神障害者の全国組織が発足しました。このような新たな流れが、全国に活発に出来始めている中で、これからの10年を私たちも積極的に発言し、かかわりあう10年としていきたいと思います。
協会の今後
協会の今後については、アルコール症・てんかん・痴呆性老人・処遇困難例、外来OT等多様化しつつある対象者と援助の展開を視野においた運営が求められてくることでしょう。
また、会員については、世代交代が加速されつつあり、役員も退職等の例をしばしば見るようになりました。小さな所帯で、一人がいくつものことと関わっていて、それだけに、後の補充が困難となることがしばしばありました。レクリエーション研修会や作業療法研修会が一時開催困難になったのも、新しい運営体制作りがすすまなかったためでした。
これからは、会の役割の再検討と共に運営体制の研究の必要がますます強まると思われます。会員の皆様には自分の会という自覚をもって、一層の会の運営へのお力添えをいただけるようお額いします。
≪本会第30回大会(1994)にて報告≫
1995−1999
医療からのアプローチでは得られない感動
「さをり織り」の城英二先生は、閉鎖病棟の患者さんと取り組んだファッションショーの事をこう伝
えて来られました。 本会第32回大会での講演後の事務局へのお手紙よリ
改めて作業療法の原点を思う
ピネルの事跡は今はもう2世紀も前のこととなり、精神保健福祉法の時代。全国精神障害者家族会連合会、精神障害者社会復帰促進センターの手で栃木県に保養所と授産施設を一体化した“ハートピアきつれ川”が誕生し、開設間もない同施設で平成8年(1996)本会32回大会が開かれました。その析り「さをり織り」と障害者の出会いを話された城先生が、その後のお便りで「医療からのアプローチからは得られない感動」と伝えてこられた障害者とともに取り組んだ体験の中に、作業療法の本質があるように思いました。一看護人の行いを見て精神医ピネルがこれだと感じた点、そこに作業療法の原点があると言われますが、作業療法に止まらず精神医療の立脚点でもあると言えるのではないでしょうか。
変革期の精神医療、現状を見据えて
この5年間、精神科デイケアの診療報酬単価の改訂が一段と進み、SST、ナイトケア、デイナイトケア、訪問看護など医療の場の点数化か図られ、診療所も増え、デイケアを併設する例も少なからず見られます。従来の共同作業所に加えグループホームや生活支援センターも展開しはじめ、入院中心医療から在宅の状態で生活と療養を継続してゆこうとする人達を支える仕組みが具体的になりつつあります。しかし地域による偏りがあり、それも一因ですが、なお長期にわたる入院生活を続ける患者さんを多数擁する病院の存在が依然としてあります。
病院内での作業療法の現場には、長期入院の患者さんに関する課題と、短期間で入院生活から脱してゆく人達や入退院を反復する人達の課題がクローズアップされてきています。技法の開発および理論化とともに病院の中だけで閉塞的に考えず、地域医療、生活支援の仕組みや保健所、職業リハビリテーションなど専門機関との連携を視野に置いた展開が求められています。
また会の研修会では、在宅生活にある当事者から、その生活や考えや思いを伺うよう努めてきました。多様なライフスタイルとそれぞれの思いを知る事が出来ました。これを一つの手掛かりとして、当事者それぞれの今と今後、私達が関わる意味などを相互に伝え合い論議してゆくことも大切にしていきたいと考えます。
何やっても「遅い!」、顔見りや「薬飲んだか」「顔洗ったか」、家に居れば「布団くらいたためよ」「時間どおりご飯食べなさい」…腹減ったら食えばいい。何でも親の寸法、健常者の寸法で計っているわけです…本会第34回大会
(1998)小坂功氏の講演より
診療報酬請求基準の見直しを
医療経済という言葉が日常実践に次第に濃い影を落してきています。医療保険制度の見直しや経済情勢から数年間診療報酬単価の改訂や施設基準の見直しもなく、対象者数の増加が求められる場合もあって、担当者の負担や悩みは増しています。本会では日本作業療法上協会との関係を保ちつつこの課題に対処する方針をたてました。
また診療報酬請求に関する監査では、実践態様の修正を要する指導もなされるようになってきました。指導の意図や本質の理解に努めるとともに、実践の意図も明確にして理解を得るよう努める必要があります。
作業療法の担い手の実態を把握するため、施設基準にある助手についての基本調査を、本会は平成9年度に行いました。多様な期待のもと助手の配置がみられ、作業療法士との関係性のみで一律に論じ切れない側面があることがわかりました。多様なマンパワーの連携による共同実践としての作業療法、診療報酬施設基準上の見直しにどう反映してゆくか協会にとっての課題です。
これからの協会/新世紀へむけて
作業療法士の養成も次第に大学教育に以降、学校も増加し、精神科作業療法の領域で仕事をする人達が増えて来ました。本会の構成員も作業療法士の比重が高くなってきています。多様な職種の人達で精神科リハビリテーションに関し交流し研究し論議する場も、本会とは別に更に広範囲にあるいはテーマ別に各種の団体が生まれ集会が開かれるようになって来ました。
こうした背景の中で、本会は「今日なお本会の存在意義は」との問い掛けを、平成10年度に会員にむけて行いました。実践に即した交流と研鑽の場としての役割を評価する意見が多く新世紀へむけて会の運営基盤の見直しをして臨むことになりました。
会員の意思と協力による会の運営がどれだけ現実化されるかが、今後の会の存否の鍵となります。そういう時期になりました。
本会第35回大会(1999)にて報告